大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和52年(う)258号 判決

被告人 杉内六郎

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人木下良平提出の控訴趣意書及び同補充書(第一)に、これに対する答弁は検察官提出の答弁書に各記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中、事実誤認と法令適用の誤り、理由不備の主張について。

所論は、要するに、被告人に対し、原判決挙示の証拠から原判示の事実を認定し、これに殺人未遂罪の法条を適用した原判決には、犯行の動機・態様及び殺意の有無の点で、証拠と事実との間の理由齟齬ないし十分に審理を尽さず、且つ、証拠の取捨選択を誤つた末の重大な事実誤認があり、ひいては、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りが存する、というのである。

そこで、所論に鑑み検討するのに、原審で取調べた各証拠に当審における事実取調の結果をも総合すれば、以下の事実が認められる。すなわち、被告人は、原判示の日時、来宅した被害者と対談中、金銭関係のもつれから口論となり、互いに悪態、雑言を浴びせ合ううち、当時妻の家出等で精神的に不安定であつたところに平素の短気な性格も加わり、被害者の言動に激昂したあまり、まず、自宅茶の間において、被害者の背後からその頭部をいきなり野球用バツトで殴打し、表に逃げ出した被害者が庭先で転倒したところ、さらにその頭部を目がけて右バツトで殴打し、次いで、起き上つて、庭先に続く道路を必死に逃げる被害者を執拗に追つて行つて、またもやバツトでその頭部を強打した。そして、全く無抵抗になつてその場に倒れている被害者を自宅庭先まで曳きずつてきたところ、被害者がなおも同所から道路へ逃げ出そうとしたので、その行く手を遮りつつ道路上に至り、前同様被害者の頭部等をバツトで殴打した。そのため、被害者は、ついに道路端のU字溝のところに倒れ、意識を失つてしまつたことが認められる。そして、右事実に徴すれば、本件犯行の態様に関する原判決の認定は、概ね相当として首肯でき、証拠との間の齟齬ないし重大な事実誤認は認められない。さらに、右事実から窮われる本件犯行の態様、とりわけ、被告人は野球用バツトで身体の枢要部である被害者の頭部を目がけて再三にわたり執拗に殴りつけたことに加えて、原審で取調べた関係証拠から認められる被害者の創傷の部位・程度、すなわち、被害者は、右殴打により、原判示のとおり、左眼失明を伴なう入院加療約二ヶ月間を要する頭部挫創、外傷性左視神経損傷、両側尺骨骨折、頭蓋底骨折の傷害を負つたこと等を併わせて考慮すれば、前示金銭関係のもつれが何故生じたかを証拠によつて解明するまでもなく、被告人が本件犯行の際、未必の殺意を有していたことは明らかである。

この点、所論は本件が一時の激情による偶発的犯行である旨を強調して、当時被告人に殺意がなかつたことを主張する。確かに、本件は、事前の計画的犯行であるとは証拠上認められず、前示のとおり、金銭関係のもつれによる口論に端を発する激情犯の事案ではあるが、前認定の犯行態様に照らせば、自宅茶の間で被害者を殴打した時点ではともかく、自宅庭先とこれに続く道路上における一連の殴打の過程において、被告人が少なくとも未必の殺意を懐くに至つていたことは優に肯認できる。

したがつて、被告人に殺意を認めた原判決には、事実と証拠との間の理由齟齬ないし事実誤認の廉は存しないというべきである。

もつとも、原判決は、判文上必ずしも明らかでないものの、犯行時における確定的殺意を認めたものと思われる。しかして、原判決は、別段粗暴な犯歴などがあるわけでもない被告人が、仮令、被害者から申し込まれていた借金の金策ができず、そのことで被害者から悪態をつかれたとしても、それだけの動機で確定的殺意を懐くに至るのは不自然である趣旨を説示し、言外にゴルフ場用地売買代金の残金清算に関し被害者との間に生じた原判示のもつれは被告人が確定的殺意を懐くに至る動機として十分である旨を暗示する。ところで、犯行当日の被告人と被害者との間の前示金銭関係のもつれが次のいずれを契機として、すなわち、(イ)被害者が被告人の妻杉内路子を介して「よみうり開発」に売却した山林の未払代金を被告人に催促したことと、(ロ)被告人が被害者からの三〇〇万円の借金申込につき、金策ができず、これを拒絶したこととのいずれを契機として生じたかは、後記のように、にわかに確定し難い。そのうえ、金銭関係のもつれが仮に右(イ)を契機として生じたものと認められるとしても、それのみで被告人が右残代金を踏み倒すために被害者の殺害を決意しなければならない状況は証拠上認められないのであつて、右(ロ)の契機について原判決が正当に説示するのと同様、(イ)の契機も確定的殺意認定の決め手とならないことは明らかである。要するに、激情犯である本件の場合、金銭関係のもつれが何を契機として生じたかは、殺意が確定的であるか未必的であるかを含めて殺意の有無認定のうえで、それほど重要視すべきでなく、むしろ、金銭関係のもつれによる口論の内容や犯行の態様、結果等、殊に犯行態様如何を検討して右殺意の有無を判断すべきである。この点、原判決の前記説示は多少言葉足らずの感を免れないが、前認定の本件犯行態様に照らせば、被告人が、自宅庭先とこれに続く道路上における一連の殴打の過程で、被害者に対して少なくとも未必の殺意を懐くに至つたことは明らかである。のみならず、口論の際の両者の悪態、雑言の内容が証拠上不明確であるから、断定はできないものの、右一連の殴打の過程で被告人の憤激が昂じて確定的殺意を懐くに至つたのではないかとの疑念も残るのである。いずれにせよ、本件の場合、未必的殺意と確定的殺意とどちらを認定するかは犯行態様等を含む諸情況の評価の差にすぎず、紙一重であつて、犯情にさして差が生せず、その構成要件的評価に影響が生ずるとも思われない。それ故原判決が確定的殺意を認定した点をもつて、原判決に控訴理由としてのいわゆる重大な事実誤認があるとまで断定できない。

次に、本件犯行の動機の点について、原判決は、「被害者との間に土地売買代金の残金清算に関しもつれを生じたことから」と認定し、被告人と被害者との間に生じた金銭関係のもつれが前記(イ)、(ロ)二つの契機のうち、(イ)を契機とする旨判断している。そして、右判断は土地未払代金の存在を前提とするものと思われるが、右前提事実認定の根拠となつた領収書の信憑性及び権利証の交付について原判決が説示した判断には、所論指摘のように、事実を誤認し、ないし登記手続について誤解しているのではないかと疑いが存するのであつて、これらの点において土地未払代金の存在については未だ合理的疑問なしとしない。したがつて、金銭関係のもつれが右(イ)、(ロ)いずれを契機とするものであるかは、にわかにこれを確定し難いというべく、したがつて、右(イ)を契機とするものであるとの判断に立つた前記原判決の動機認定については事実誤認の疑いも完全に払拭できないところである。

しかしながら、本件犯行は、金銭関係のもつれが右(イ)、(ロ)いずれを契機として生じたかはともかく、前示のように、金銭関係のもつれによる口論に端を発する激情的犯罪であることが明確であつて、さらに、それ以上に右契機がいずれであるかの決定は、確定的・未必的殺意有無の判断の上でも、犯情判断の上でも、それほど必要且つ重要であるとは考えられない。

それ故、たとえ、原判決に犯行の動機に関し事実の誤認が存するとしても、右誤認は、構成要件的評価に影響を及ぼす、いわゆる控訴理由としての事実誤認には該当しないというべきである。

以上のとおりであるから、被告人に対し、原判決挙示の証拠に基づき原判示の事実を認定し、これに殺人未遂罪の法条を適用した原判決に、所論のような理由齟齬ないし重大な事実誤認、もしくは法令適用の誤りが存するとは考えられず、論旨はすべて理由がない。

控訴趣意中、量刑不当の主張について。

検討するのに、金銭関係のもつれが前記(イ)、(ロ)いずれを契機として生じたかはともかく、当時、妻の家出等のため精神的に不安定な状態にあつたとはいえ、一時の激情にかられた末、防禦一方の被害者に対し、殺意(前示のとおり)をもつて野球用バツトで頭部目がけて執拗な攻撃を加え、左眼失明を伴う前記の重傷を負わせた被告人の本件犯行は、態様・結果において悪質・重大であり、且つ、動機においてもことさら同情に値せず、その刑責は軽視できない。原判決前に被害者に対し五五万円余を送付したのみで、被告人は現在に至るも未だ被害者に対する適切な慰藉の措置を講じていないことを併わせて考えると、原判決の量刑(懲役五年)はやむを得ないものと思料され被告人にこれまで前科のないこと、被害者が幸い社会に復帰できたこと、被告人が本件犯行前に自殺を図つたことその他被告人の家庭の事情等記録、原審で取調べた証拠並びに当審における事実取調の結果によつて認められる所論指摘の諸事情をすべて被告人のために有利に斟酌しても、右量刑が重きに失するとの非難は当たらない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書によりその全部を被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 草野隆一 高山政一 油田弘佑)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例